体罰に関する考察

いじめの次に体罰について、学校教育の問題点としてマスコミを賑わせています。
僕自身の体罰経験(する側・される側)と痛みや拷問の研究者の視点から考察します。
まず、暴力は人を制するときに適切か?
これは拷問研究の観点から答えは否です。
痛みには慣れます。
また、身体的な衝撃は身体に記憶されません。
暴力を受ける前の恐怖が記憶に刻み込まれます。
これは人が持つ想像力によって引き起こされます。
注射を打たれる前と打たれたあとの感覚の差を思い出すと良いと思います。
注射を打たれたあとの方を恐怖だという人はほとんどいないと思います。
体罰も同様です。
殴る前の状態で人を制することが可能なのです。
殴ってしまったならば、ルールで言えばそこで罰は終了します。
「あなたの罪に対して、身体に打撃を加えることが罰です」、「殴ったらあなたの罪は許されます」となるはずです。
言い換えれば、罰は罪を許すための装置なのです。
罰を与える代わりに許します、罰がなければ許しません。
その観点からすると今回、高校生が加えられたのは罰ではなく、単純な暴力であったと言えます。
もし体罰であるならば、契約関係が成立しなくてはいけないのです。
殴りながら「2軍に落とす」などと行った声かけは、2重の罰が含有しており、罪に対して過剰なものとなります。
僕個人としては体罰はあって当たり前だと思っています。
それは罪と罰の関係性が明確になれば有効であるからです。
ただ、有効性は暴力による痛みではなく、プレ暴力の恐怖感です。
罪をすべて手放しで許すようなことはあってはいけません。
それと同様に罰を加えて許したのならば、それを訴追してはいけません。

では、なぜ教員は暴力を続けたのでしょうか?
あくまでも個人的な見解ですが、顧問が「殴る痛み」を忘れてしまったからだと思います。
殴られる側も痛いですが、殴る側も痛みがあります。
この打撃により壊れてしまうかも知れない、傷つけてしまうかも知れないという予測と殴られたあとの反応を見て、どのような効果があったのかを判定します。
このプロセスの中で、もしきちんと判定しようとする意志があったなら、殴ることはやめます。
続けざまに、殴るというのは自分の弱さを人にぶつけているに過ぎません。
おそらく、それは怒りという感情ではなく、恥ずかしさに近いともいます。
自分の失敗を他人に押しつけることで自分の恥を隠そうとするのです。
刑の執行側が殴る痛みを忘れてしまったときに、罪と罰の契約関係が完全に破綻します。
かつて、ナチスの絶滅収容所で100万人を殺したシュタングル所長の裁判で罪の意識を持っていなかったことがわかっています。
単純に命令であったという割り切りがなければ、100万人も殺すことは出来ないわけです。
ここまで極端でなくても、罰を与える側が責任を持った契約関係を示さない限り、体罰はただの暴力になります。

最後に暴力はいけないものなのか?
拷問の研究をしていると暴力で人を変えることは余り出来ないと言うことがわかっています。
暴力は道具として使用可能ではありますが、もっと効果的に人を苦しめる方法はたくさんあります。
暴力は想像力がない人が使う手段です。
暴力は絶対にいけないとは言いませんが、安価で単純ですぐに使えるという利点しかないのです。
本来ならば暴力の目的があるはずなのですが、多くの人が目的を考えていないのだと思います。

誰かを制したいのであれば、暴力よりも効果的な方法を使用すべきです。
また、それを学ぶべきです。
ヒントはその人の想像力を賦活することです。
罪を許したいなら罰を与えるべきです。
そして、罰を与えたならきちんと許すべきです。

今回の報道をみてこんなことを考えました。

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コメント: 1
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    czytaj dalej (金曜日, 17 11月 2017 23:45)

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