ここではお薦めの本を紹介します。
また、簡単に書評などしてみようと思います。
随時更新していきます。
遠藤 周作 『沈黙』 新潮文庫 1981年の作品
修士の時代に読んで衝撃を受けた本です。
オーベンの先生がゼミの中で話をしていて興味を持ったのがきっかけです。
内容は島原の乱の後の長崎に宣教師が不況のために上陸し、捕縛から逃げまどいながら上について考え、そして、捕まって神について考えるものです。
神は、こんなにも愛し、使えてきた神は、なぜ沈黙するのだ、と主人公のロドリゴは問い続けます。
その答えを敬虔なキリスト教徒であった遠藤周作がキリスト教を敵に回してまでも出します。
実際にこの小説が書かれたときは宗教的問題が起こったそうです。
なぜ、これがおすすめなのかといいますと宗教とは何で、そして、私たちは何を信じ生きているのかをかいま見せてくれるからです。
時代の流れに翻弄されながらも弱い自分をどのようにたてていくのか、そして、どのように倒すのか、それが表現されている小説だと思います。
絶対にお薦めの小説です。
トマス・マン 『魔の山』Der Zauberberg 岩波文庫 1924年の作品
名作といわれる本です。
時代が変わっても受け継がれていく普遍的な内容の本であると思います。
もちろん時代背景や医療的な技術の古さは否めません。
しかし、人としての営みや思想などは普遍的な意味を含んでおり、仮に時間をかけても読み込んでいく必要がある本であると思いました。
友情、愛、病い、死、時代、そして時間というテーマがふんだんに盛り込まれています。
人生で出会えてよかったと思える作品です。
大学生の時代にがんばって読んでみる価値があると思います。
ちなみに、この本との出会いは今度紹介する『ノルウエイの森』の中で、直子を京都のサナトリウムに見舞う際に主人公のトオルが読んでいたというところにあります。
いい本に出会う。
人生にとっては非常に重要なエッセンスです。
ドストエフスキー 『罪と罰』 新潮文庫 1866年の作品
過激なヒューマンストーリーです。
罪と罰の関係について考えるためにもっともよいものであると思われますが、それ以上に自分存在について疑いを持ち行動によってそれを確かめるという勇気と残酷さと愚かさが混同した内容の小説です。
そして、罪と罰を通してそれを超えゆくものはいったい何なのかを問います。
簡単に言ってしまえばそれは愛なのですが、簡単な性愛や恋愛などではありません。
自己犠牲とそれの徹底です。
そこにあるのはエゴイズムではなく、神がかった何かであり、時代であり文化なのだと思います。
ドストエフスキーが何を言いたかったのかは読者が判断すべきでしょうけれども、単に罪と罰の関係性を述べているのではないということは明白です。
罰は罪を意識したときにすでに受けているという内容の話が出てきます。
これは非常に示唆的なものです。
私たちの身の回りになる罪や罰がその意味の中にあるかをじっくり考えてみたいと思わせられる内容です。
フィリップ・フォレスト 『さりながら』 2008年の作品
非常にセンチメンタルな私小説です。
4歳の娘を骨肉腫でなくし、打ちひしがれて日本を旅する作者であるフランス人が、日本の文化や文学の中で、自分を建て直しそうとします。
悲しみの中で私たちが見る思い出は、悲しく、救いのないように見えます。
悲しくて仕方なくて、何をしてもただ単に疲れてしまう。
自分の場所はどこの世界にもなく、自分の存在意義さえ失ってしまう。
その中で追い求めているものはいったい何なのか。
悲しみを単純に定義できませんが、この作品の中の悲しみははっきりとした理由をもち、そして、どうやっても救われないつらいものです。
そこから何を見るのか、そこからどこへ行くのか。
答えは出ませんが、私たちに何かを考えされてくれます。
露の世は 露の世ながら さりながら
この小林一茶の句を心の底から理解できるようになります。
つらくて仕方ないですが、心をつかまれて仕方ない私小説です。
091030
中岡 成史 『臨床的理性批判』 2001の作品
見事な本だと思います。
別に媚を売っている(著者は指導教官)わけではありませんが、僕にはこの本の言葉が染み渡るように思えました。
哲学書にしては文章が簡潔で読みやすく、哲学学してなくてとっつきやすい本だと思います。
分量も200ページ程度でつらくないです。
応用哲学ですがお勧めの本です。
しかしながら現在は絶版のようですね。
中古では買えるでしょうけれども、増版がなく新品が手に入らないので残念です。
091109